におい豆は、
この地域で60年以上受け継がれている
固定種です。
私たちは3代に渡り種を守り繋いでいます。
6月15日を目安に前後3~5日の間に種を蒔き、
8月上旬ころに小さな花を咲かせます。
(この頃に畑全体からほんのり湯でた枝豆の香りがします。)
9月中旬~下旬に枝豆として収穫し、
11月に枯れた木を大豆として収穫します。
におい豆はこの地域に適した
強い種となりました。
私たちは他にも多くの品種の野菜を
栽培していますが、
日照りが続いて水不足の時や、
台風や暴風雨で他の野菜が壊滅的な
ダメージを受けるときでも
毎年同じような収量が見込めます。
私たちは河川敷の畑を長年使用しています。
河川敷の畑の特徴としては、
特に夏場は朝夕の寒暖差が大きく、
おいしい作物ができます。
また、土も砂状の土で水はけもよく、
根菜類は作物に土が付着せず
収穫作業がしやすいメリットがあります。
ただ、半面大きなリスクも伴います。
10年~15年に一度大雨による川の氾濫によって
畑が飲み込まれてしまいます。
畑は栄養が豊富な表面部分の土が流され、
大きくえぐられ凸凹になり、
また大小多くの石が大量に流れ込みます。
本当に人間の力は無力だなと感じます。
しかし同時に、
先人たちもこんな自然環境の中でも、
また畑に戻ったんだなと思うと
私たちも負けられないなと感じます。
一年に一度しかない収穫の前に
すべてを失う喪失感は本当に大きいですが、
先人たちへの感謝と自然のありがたさに
改めて気づく瞬間です。
まめくらを運営している押切食品は、
昭和33年に押切京一が漬物を行商で
売り歩いたところから始まりました。
それまでは春夏秋は野菜を作って販売し、
冬には県をまたぎ酒屋に出稼ぎに行く生活が
10年ほど続きました。
戦後復興で高度経済成長期の最中、
妻のイネ子と盆も正月もなく働き続けました。
京一は小学校卒が最終学歴。
ただ、持ち前の負けず嫌いで
会社を成長させてきました。
経営のモットーは『まな板経営』。
「会社は大きくなればなるほど風当たりも大きくなり、
自分が管理できない部分も出てくる。
会社は大きいことや
売り上げが大きいことが大事ではなく、
いかに利益を残せるかが大事だ。
踏まれても踏まれても倒れない
強い会社を作らないとだめだ。」
「自分自身は
本当に貧しい時代を生き抜いてきた。」
「バナナは病気になった時じゃないと
食べられない。」
「一個10円の卵を買えずにいた。
だから卵をもらったときは嬉しくて
すぐに食べずに
大事に両手で
すりすりしてから食べた。」
「昔はほんとによく山に入った。
遊びに行くのもあったけど、食べものを探しに。
だから、今は山に手入れをしに感謝して入山している。」
「ただ、昔はみんなが貧しかった。
だからみんなで頑張れた。」
京一さんからの話は
大きなヒントになるようなことが多い。
「私たちの時代は本当に大変だった。
だけどこれからの時代の方がもっと大変だ。
変化が速すぎる。だからお前たちは勉強しろ。
日本で一番の金持ちになる必要はない。
みじめにならないように努力しろ。」
「スーパーに行けばモノが溢れている。
こんな時代が来るとは思ってもなかった。」
「漬物でも豆腐でも何種類あるか数えてみろ。
20~30種類はある。こんなに必要か?
とんでもない戦いだ。」
「何でもかんでも店が多すぎる。
企業同士がどちらかがつぶれるまで
やっているようだ。」
また、自分自身も常に努力家で自分に厳しい。
毎日散歩などの軽い運動をし、毎晩寝る前には
「今日も一日ありがとうございました。」
と日記を付ける。
先祖供養も欠かさない。
「俺は運が良かった。本当に守られてきた。」
自分の健康にも気をつかっており、
姿勢もよく背筋も真っすぐ。
規律正しい生活をし、健康の秘訣を聞けば、
「毎朝自分で作ったみそ汁を飲んでいる。
旬の野菜を使って。」
「あとはちゃんと昼寝すること。」